ミトラのブログ 秘境と異世界

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現在の大阪で新羅洲、百済洲、百済郡はどこか?

『大阪の古地図にみえる「百済」「新羅」② | 星州李氏の京都アジョシ』より

1が百済洲、2が新羅洲、3が百済郡だったとされている

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https://ameblo.jp/sangzae/entry-12215251488.htmlより引用

 
大阪の百済と新羅

大阪の歴史を語るのに欠かせないのが渡来人で、中でも百済・新羅からの渡来者は大きな影響を与えた。

大阪市の大半は弥生時代は完全な海で、古墳時代から豊臣時代にかけて砂が堆積して陸地になった。

北は淀川、南は大和川で運ばれた土砂が徐々に海を埋め立てて、現在の大阪市になりました。


縄文人にとって川の下流は危険なだけで価値がなかったが、渡来人を含む弥生人には農耕に適した土地でした。

飛鳥時代に奈良が都になると、都に最も近い港として、堺は半島や大陸との貿易で発展しました。

すると堺や大阪には半島や大陸からの貿易商人や労働者、外国の使節や貴族なども移住してくるようになりました。


ここで重要な役割を果たしたのは最近世界遺産に指名された「仁徳天皇」で、半島からの労働者を大量に受け入れて大阪湾を埋め立てました。

当時の大阪市は多くの島に分かれていて、新羅洲に新羅人、百済洲には百済人が住んでいました。

仁徳天皇の庇護のもとで渡来人は暮らしていた訳で、仁徳天皇陵の築造も彼らが土木工事をしたと思われます。


時代は少し後になり、斉明天皇(母)天智天皇(長男)天武天皇(弟)の時代になりました。

神功皇后の三韓征伐で百済は日本の同盟国で服属国、新羅も服従していたが、白村江の戦いで百済が滅ぼされ日本は半島の領土を失いました。

天智天皇は亡命してきた百済の王族や領民らを受け入れて「百済郡」という所領を与えました。


百済の王子・善光は「百済王氏」として百済郡を与えられ、大いに発展し河内国に移って平安時代まで栄えた。

その後は百済王氏という一族は消滅し、武家や貴族になったり日本と同化したと考えられる。

百済洲や新羅洲、百済郡には大きな神社や寺があり、家畜の飼育が行われ、労働者や貿易商人などでとても賑わっていたそうです。

 

当時の新羅洲(浪速区内)にある白木神社

何度か移転して現在地に落ち着いたという

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道頓堀も新羅洲だったようです

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新羅洲=浪速区、百済洲=中央区、百済郡=平野区

西暦1000年代の大阪古地図には百済洲、新羅洲が描かれていて、百済洲には「船場」「敷津」という地名があり、新羅洲には「難波潟」と書かれています。

西区堀江の土佐稲荷神社は新羅洲当時から現在の場所にあったと言われていて、新羅洲は難波駅から堀江あたりまでだったと推測できます。

百済洲は中央区船場から浪速区あたりまで、つまり百済洲は現在の「中央区」周辺で、新羅洲は「浪速区」周辺になります。


百済王に与えられた百済郡は現在の平野区から住吉区にかけてで、その前から猪飼野と呼ばれた生野区コリアタウンは渡来人が多く住んでいました。

生野区は大阪市が海だった時代の海岸線あたりにあり、百済洲や新羅洲とともに渡来人が多かった。

猪飼野の近くには仁徳天皇の大阪住居もあり、天皇自身が渡来人を視察した事もあったというほど重視していた。


さて時代は下って豊臣秀吉の時代になり、大阪城築城で新羅洲と百済洲は城を作るのに邪魔になりました。

大阪城は現在の大阪市全体が城になっていて、当時海の名残で運河や堀が多く、天然の要塞を形成していました。

百済洲と新羅洲の人たちは何度も移転させられ、渡辺村(現在の浪速区)に落ち着く事になります。

 

生野コリアタウンは猪飼野で千数百年前から渡来人が多かった

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大阪証券取引所や船場センター街は百済洲だったようです

元々は百済との交易から商取引が発展したのかも知れません

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