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神功皇后陵を訪問(奈良市) 三韓征伐はあったか?

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神功皇后の不毛な論争

今回は超有名人の神功皇后で、実在するとかしないとか絶えず論争になっています。

学者は面倒くさいので放っておくとして、奈良市にある神功皇后陵を訪問してきました。

聖徳太子はいなかったとか、古代エジプト人は宇宙人だったとか言い出す連中とは話が合いそうにありません。


3月の末に近くの成務天皇陵、考謙天皇陵に行き、同じ日に神功皇后陵にも回ってきました。

晴れていて暑いくらいでしたが、この神功皇后陵はかなり巨大で全体を見渡すことは出来ません。

資料だと墳丘長(島の内側)275メートルの前方後円墳で、良くあるパターンですが壕の一部は埋め立てられています。

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さりげなく道標が置かれている

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壕の外側には堤もあったはずなので、築造時には全体で300m以上だったかも知れません。

現在は壕の内側の墳丘が山になって残っていて、壕の一部分は溜め池として残っています。

神功皇后陵と一体化しているように見える南側の山には八幡神社があり、参拝することができる。

 

国際問題に発展した三韓征伐

続日本後紀(840年ごろ)には近くの成務天皇陵を混同していたことがわかったと書かれていて、当時すでに場所が分からなくなっていたようです。

それから1200年後の現在はもっと分からなくなっている訳で、ここが本当に神功皇后陵なのかは不明です。

ただしこれほど巨大な前方後円墳は天皇か天皇に匹敵する権力者の墓なのは、疑う余地がないように思います。

 

線路沿いの舗装道を通る

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農地の向こうに壕と森が見える

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神功皇后は仲哀天皇の妻で応神天皇の母、仲哀天皇の父は熊襲征討・東国征討を行ったヤマトタケルでした。

日本書紀によると夫の仲哀天皇が亡くなった後で熊襲を討伐し、朝鮮に出兵して新羅と戦い降伏させた。

いわゆる三韓征伐ですが、戦後韓国政府が抗議してきたり、都合が悪くなったので「いなかった」事になりました。


ところが朝鮮半島や中国でこの時代の研究が進むと、半島南部で前方後円墳が多数発見されたり、日本の統治下にあったのが分かってきます。

中國でも日本がその時期、半島の一部を支配したと書かれている石碑が見つかるなど、動かしがたい事実になっています。

三韓征伐は西暦400年ごろと推測され、半島の一部を支配したのはその後100年程度だったようです。


また古事記の表現は大げさで、実際には倒したり征服したのではなく、新羅と百済は戦わずに倭国に服従していたと考えられます。

 

壕の一部は溜め池になっている

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道路から拝所が見えず、入り口が分かりにくい

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ここから入るようです

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反対側の農家

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これが拝所

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小高い丘になっていて景色が良い

皇后や女性天皇は丘の上が多い気がする

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帰り道を下りる

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どう見てもこっちが正面の参道です

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隣の山にある八幡神社に上ってみる

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こっちの建物のほうが立派

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横の稲荷神社を線路の反対側から見る

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中には小さなキツネ達がいた

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この踏切は結構列車が通って閉まる

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おしまい