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徳川家康は「結果にコミットする人」より誠実な人を重用した


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 織田信長など能力主義の大名が次々に滅びる中、年功序列の徳川家康が天下を取った。

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http://pds.exblog.jp/pds/1/201507/04/80/e0296880_2292245.jpgより引用

 

結果にコミットする?織田家

結果にコミットするという変な日本語を広めたのは ライザップという怪しいダイエットチェーンらしい。

「コミットする」という日本語を始めて聞いたのは、自分の記憶では「バカ総理」で有名だった宮沢喜一首相だった。

この人は東大出身で、学歴や英語が喋れるのを鼻にかけていて、とにかく評判が悪く、自民党が野党に転落する原因を作った。


それはともかく昔民主党では公約という言葉を使わず、「マニフェスト」と言っていました。

コミットも「約束する」という意味なので、宮沢総理は「結果を約束します」という意味でコミットしていたのだと思う。

現在ではさらに「結果を達成する、実現した」みたいな使われ方もしているようで、英語として正しいかはもはやどうでも良くなっている。


昔500年くらい前に日本には織田信長という武将がいて、親父から受け継いだ狭い土地を拡大して、「日本の王」と西洋人に呼ばれるようになった。

信長の登用方は能力重視で、結果を約束し、達成した人間を出世させました。

信長はあれよあれよという間に勢力拡大し、もうすこしで天下統一を果たせるところまで行った。


信長の一世代前に越後には上杉謙信という武将がいて、信長の軍隊を子ども扱いしたほど強かった。

信長と謙信は「手取川の戦い」天正5年(1577年11月3日)で激突したが、この数年前まで両国の国力(石高)は同じくらいだった。

織田も上杉も1570年ごろの石高は実質150万石近かったが、織田軍は既に10万人の兵力を持っていて、3万人以上は常に戦地に動員していた。

 

実力世界で次々に滅んだ実力主義

対する上杉軍は総兵力がせいぜい3万人以下で、戦地に動員するのは通常3千人程度に過ぎなかった。

同じように最強の武将でありながら、連れて行く兵士の人数が10倍違っていた。

信長が重視したのが結果主義で、約束した結果を出せなかった部下は、先代から仕えた腹心であっても降格や追放している。


だが天和統一を目前にした1582年、疑心暗鬼に駆られた部下の明智光秀に討たれてしまった。

結果を出せば昇進、結果を出せなければ追放や処刑というのは、いつか自分も同じ目に遭うと予想でき、謀反を起こす理由になりえる。

信長の死後に織田軍団は瞬時に崩壊し、豊臣秀吉が天下を取り織田家は名目上しか存在しなくなった。


同じく結果主義でのし上がったのが武田信玄だが、やはり信玄亡き後の武田は総崩れになり、敵前逃亡や寝返りが続出した。

これらと対照的だったのが上杉家で、謙信がトイレで倒れてなくなった後、内乱でボロボロになったが家臣たちは付いてきた。

跡を継いだ養子の景勝は自分についてきた部下達を重用し、上杉家は明治維新まで続いた。


もう一人の戦国時代の主役の徳川家康は「三河以来の重臣」という言葉が時代劇に度々登場する。

徳川家が小さかった頃の拠点が三河で、最初から徳川に使えていた家臣を能力に関係なく重用した。

能力主義の織田と年功序列の徳川は同盟国だったが、対照的なシステムだった。

 

実力主義の武将は家臣の裏切り、仲間割れ、逃亡などで滅んでいった。

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http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22451030527.jpgより引用

 

 

古くからの家臣しか信じない家康

徳川家康や徳川家は戦争に弱いイメージがあるが、実際には武田信玄に一度負けた以外、全て勝っている。

能力主義の織田には日本全国から、秀吉や明智光秀のような高い能力を持つ人が集まってきた。

家康はそのように他家から移籍してくる人を好まなかったようで、関が原で戦功を上げた武将もそれほど重用しなかった。


関が原の合戦の勝因は、なんと言っても小早川秀秋の寝返りで、彼が西軍についたら徳川は負けたかも知れなかった。

合戦後に家康は小早川を岡山藩主に据え、一応は恩賞を与えたが、関が原からわずか2年後に秀秋がなくなると領地を没収した。

本人がなくなって息子が居なくても、養子や兄弟に相続させた例があり、家康は小早川秀秋をかなり嫌っていたと考えられる。


徳川幕府成立後も「三河以来の重臣」や親類縁者を重視して一族で日本中の有力大名を独占しました。

どんなに功績を挙げて有能であっても、家康は古くから忠誠を尽くした人と、一族の者しか信用しませんでした。

家康の後継者に指名されたのは、もっとも愚鈍で無能とも評されたが、最も家康に忠実だった秀忠だった。


日本を統一したのは結局徳川家康で、彼の好みによって日本では年功序列制度や縁故主義が、この跡数百年も続く事になった。